LOGINあの雨の夜から、三週間が過ぎた。
東條怜司は、何事もなかったかのように仕事をしていた。 朝は誰よりも早く出社し、会議では一切の妥協を許さず、必要な指示だけを簡潔に出す。 私に対しても、それは変わらない。 「白石、午後の会議資料は」 「はい。先ほどデスクに置いておきました。変更箇所には付箋をつけています」 「分かった。ありがとう」 それだけ聞けば、以前と何も変わらない。 けれど、あの夜以来、怜司さんは何度か私を食事に誘ってくれていた。 「白石、今夜は予定があるか」 「……申し訳ありません。今日は少し予定がありまして」 「そうか。残念だな」 怜司さんは手元の書類を閉じ、少し考えるような視線をこちらに向けた。 「では、明日は?」 「明日も……すみません」 「なるほど。最近の君は、俺よりよほど忙しいらしい」 冗談めかした口調に、思わず顔を上げる。 「そんなことは……」 「いや、いいんだ。優秀な秘書を独占しすぎるのも考えものだからな」 そう言って笑う彼に、胸が痛む。 本当は、何の予定もなかった。 ただ、曖昧な関係の中二人きりになってしまうのが怖かった。 「……では、失礼いたします」 書類を抱え直し、社長室を出ようとする。 「紗奈」 不意に名前を呼ばれ、足が止まった。 「……はい」 「ひとつだけ聞いてもいいか」 怜司さんはいつもの穏やかな表情を浮かべていた。 「最近、俺の誘い方が下手になった気がするんだが」 「……え?」 「以前はもう少し、君を食事に誘うのが上手かったはずなんだ」 思わず笑ってしまった。 「……社長でも、誘い方に悩まれることがあるんですね」 「そうだな。好きな相手には、どうも格好がつかない」 さらりと言われ、頬が熱くなる。 怜司さんはそんな私を見て、わずかに目を細めた。 「……それでも、難しいかな」 先ほどまでの軽い調子とは違う、静かな声だった。 私は書類を抱える手に力を込めた。 「……申し訳ありません。今は、少し忙しくて」 「そうか」 彼は小さくうなずいた。 「なら、落ち着いたら教えてくれ。店選びだけは得意なんだ」 「……はい」 「そう言っておいて君の好みを外したら、社長としての評価まで下がりそうだが」 「そんなことで評価は下げません」 「それを聞いて安心した」 彼が笑うので、私もつられて笑った。 社長室を出る直前、もう一度だけ振り返ると、怜司さんはまだこちらを見ていた。 私は何も言えず、静かに扉を閉めた。 仕事の話をして、必要な資料を整え、彼の予定を管理する。 *** 「白石?」 名前を呼ばれ、私ははっと顔を上げた。 「はい。申し訳ありません」 「いや、何か考え事か」 「いえ、大丈夫です」 怜司さんは私を見つめた。 「顔色がよくないな。体調でも悪いのか」 「少し寝不足なだけです。ご心配をおかけして申し訳ありません」 「謝ることじゃない。無理はするなよ」 「ありがとうございます」 短いやり取りだった。 それなのに、胸が苦しくなった。 彼は優しい。 あの夜だけではなく、今だってこうして私を気遣ってくれる。 だからこそ、期待してしまう自分がいた。 もしかしたら、彼も私のことを特別に思ってくれているのではないか。 そんなことを考えては、すぐに打ち消した。 彼にとって私は、結婚相手の候補にすら挙がらないだろう。 それに、ここ数日、もうひとつ気がかりなことがあった。 予定していた月経が、まだ来ていない。 最初は、仕事の疲れやストレスのせいだと思っていた。 けれど、朝から胃のあたりがむかつくことが増え、食事の途中で箸が止まることもあった。 まさか。 そんな考えが浮かぶたび、私はすぐに打ち消していた。 あの夜のことを思い出すと、未だに胸が高鳴る。同時に、どうしようもない不安が込み上げてきた。 もし、本当にそうだったら。 私は、どうすればいいのだろう。 *** その日の帰り、私は駅前のドラッグストアに立ち寄った。 妊娠検査薬の棚の前で、立ち止まる。 誰かに見られているわけでもないのに、ひどく落ち着かなかった。 急いでひとつだけ購入した後、足早に店を出る。 家に帰っても、すぐには使えなかった。 鞄を置き、着替えを済ませても、検査薬を取り出すことができない。 もし、違っていたら。 きっと、ほっとするだろう。 今までどおり仕事を続けられる。怜司さんのそばにいられる。 あの夜のことも、胸の奥にしまっておけばいい。 けれど、もし違っていなかったら。 私は小さく息を吸い、説明書を開いた。 書かれている手順を何度も確認しながら、検査を済ませる。 結果が出るまでの時間が、ひどく長く感じられた。 時計の針が進む。 私は洗面台の前で、両手を握りしめていた。 お願い。どうか、違っていて。 そう願いながら結果を確認した瞬間、息が止まった。 陽性。 妊娠している可能性が高い。 「……うそ」 かすれた声が、静かな部屋に落ちた。 何度見直しても、結果は変わらなかった。 精度が高いと謳うパッケージが、いたずらに思考力を奪っていく。 私はその場にしゃがみ込んだ。 何も考えられない。 やがて、恐る恐るお腹に手を当てた。 まだ何も変わっていない。 痛みもなければ、これまでと違う感覚があるわけでもない。 それなのに。 ここに、小さな命がいるかもしれない。 怜司さんの子どもが。 そう思った途端、涙があふれた。 嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。 ただ、頭に浮かぶのは、あの雨の夜のことばかりだった。 優しく名前を呼んでくれた声。 抱きしめてくれた腕の温もり。 そして、翌朝に聞こえた電話の言葉。 ――会社のために必要なら、いずれは考えるさ。 見合い。結婚。 東條グループを背負う人。 彼には、私の知らない世界がある。 「……どうしたらいいの」 誰にも聞こえない声で、私はつぶやいた。 *** 翌日、私は産婦人科を受診した。 診察を終え、医師から妊娠していると告げられる。 これから定期的に診察を受けること。 体調に気を配り、無理をしないこと。 説明を聞きながら、私は何度もうなずいた。それしかできなかった。 病院を出ると、街はいつもどおりだった。 行き交う人々も、走る車も、店先に並ぶ商品も。 何も変わっていない。 変わってしまったのは、私だけだった。 お腹に手を添えながら、ゆっくり歩く。 ここに命がある。私が守らなければならない命が。 途方に暮れながら帰宅していると、街路樹が少しずつ色づき始めているのに気づく。ついこの間まで暑さが残っていたのに、朝晩はすっかり肌寒い。 季節だけが、何事もなかったかのように進んでいく。 *** その夜、私は自宅でスマートフォンを握りしめていた。 怜司さんの連絡先を開く。 仕事の連絡なら、何のためらいもなく送れる。 明日の予定変更。会議資料の確認。取引先からの連絡。 どんな用件でも、必要なことを簡潔にまとめて送信できる。 けれど、今は全く手が進まない。 『お話ししたいことがあります』 そこまで入力して、手が止まった。 これでは、あまりにも曖昧だ。 『実は、妊娠しました』 そう打ち直す。 たった一文なのに、送信ボタンを押せなかった。 このメッセージを送れば、すべてが変わる。 彼はきっと責任を取ろうとする。そういう人だ。自分が引き受けるべきことから逃げない。 だからこそ、怖かった。 彼の誠実さに甘えて、人生を縛りたくなかった。 彼が本当に私を選んでくれたのか。それとも、責任を果たそうとしているだけなのか。 そんなことを疑いながら夫婦になるなんて、きっと耐えられない。 私は入力した文章を、ひと文字ずつ消していった。 「……ごめんなさい」 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。 最近は、謝ってばかりだ。 *** 翌朝、出社すると、怜司さんはすでに社長室にいた。 「おはようございます、社長」 「ああ、おはよう」 いつもどおりの挨拶。 いつもどおりの光景。 それだけなのに、私は彼の顔をまともに見られなかった。 「白石」 「はい」 「本当に体調は大丈夫か?」 思いがけず尋ねられ、私は慌てて顔を上げた。 「はい。もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」 「ならいいが。具合が悪いなら、遠慮せずに言ってくれ」 「はい。ありがとうございます」 その優しさに、胸が痛くなった。 今妊娠していると伝えれば、彼はきっとさらに心配してくれるだろう。 病院にも付き添ってくれるかもしれない。 なんなら私の体調を気遣い、仕事の負担を減らそうとまで言い出すかも。 「白石」 「……はい」 「少し、時間をもらえないか」 私は顔を上げた。 彼は書類を閉じ、こちらを見ていた。 「仕事のことでしょうか」 「いや。個人的な話だ」 心臓が嫌な音を立てた。 「あの夜のことも含めて、君と一度きちんと話がしたい」 思わず視線を落とす。 あの夜。彼はこんなにも簡単に口にする。 「……申し訳ありません。今は、少し」 「今すぐじゃなくていい。君の都合のいいときで構わない」 「……ありがとうございます」 「紗奈」 その呼び方に、思わず顔を上げさせられる。 「俺は、君に無理をさせたいわけじゃない」 怜司さんは少しだけ眉を寄せた。 「ただ、あの夜のことを、なかったことにはしたくないんだ」 息が止まりそうになった。 なかったことにはしたくない。その言葉が、どれほど嬉しいか。 けれど、今の私には、その先を聞く勇気がなかった。 妊娠していると伝えれば、きっと彼は責任を取ろうとする。 今こうして話そうとしてくれているのも、彼の誠実さゆえなのかもしれない。 「……すみません。今は、仕事に集中したいんです」 怜司さんの表情が、わずかに曇った。 「……そうか」 それ以上、彼は何も言わなかった。 私の気持ちを尊重してくれたのだと分かっていた。 それでも、彼が静かに書類へ視線を戻したとき、ひどく寂しくなった。 自分から拒んだくせに。 私は本当に、勝手な女だと思った。 *** 帰宅した私は、もう一度スマートフォンを手に取った。 今度こそ、伝えよう。何も言わずに誘いだけ断り続けるのは間違っている。 そう思い、怜司さんの連絡先を開いた。 けれど、ふと、その先にまで考えが巡った。もし、この子が生まれたら。 怜司さんは父親として、この子を迎えようとするだろう。 東條家の跡取りとして育てるべきだと周囲が考えるかもしれない。 どこで育てるのか。 誰が育てるのか。 そして将来、何を期待されるのか。 まだ生まれてもいないこの子の人生が、私の知らないところで決められてしまうかもしれない。 東條怜司と表示されたメッセージ画面を閉じる。そしてゆっくりとお腹に手を当てる。 「ごめんね……」 わけもわからず涙が頬を伝った。この子には、無駄に苦労をかけてしまうかもしれない。 「あなたのことは、私が守るから」 怜司さんを好きな気持ちは、今も変わらない。それでもこの子だけは、誰かの都合に振り回されずに生きてほしい。 私は涙を拭い、顔を上げた。 不安はある。怖さもある。 それでも、この子を産みたい。 私のもとに来てくれた命を、守りたい。 「一緒に頑張ろうね」 小さなお腹に向かって私はそっと語りかけた。 返事はない。 それでも、もうひとりではないのだと思った。 *** 翌朝、私はいつもどおり出社した。 社長室のドアをノックし、いつもの声で挨拶をする。 「おはようございます、社長」 「ああ、おはよう」 怜司さんは書類から顔を上げ、私を見た。 「顔色がすぐれないな。変わりないか」 「はい。大丈夫です」 彼は何か言いたげだったが、結局それ以上は尋ねなかった。 私はいつものように一日の予定を読み上げる。 会議の開始時刻、来客の予定、午後の打ち合わせ。 ひとつずつ確認している間だけは、普段の自分でいられた。 「……白石」 「はい」 「本当に、無理だけはするなよ」 「ありがとうございます」 私は頭を下げた。 その言葉に、どれほど救われているか。 そして、どれほど苦しめられているか。 きっと彼は知らない。 隠し通さなければならないのに、彼の優しさに触れるたび、決意が揺らいでしまう。 私はこの日から、大きな秘密を抱えて生きていくことになったのだった。「まま!」 背後から元気な声が聞こえた。 振り返ると、湊が小さな靴を片方だけ持って立っていた。 「湊、お靴履きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、もう片方はどこかな?」 湊は手元の靴を見つめ、それから部屋の中をきょろきょろと見回した。 「あれ? なくなっちゃった?」 「ない!」 「困ったねえ」 私が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。 最近の湊は、何でも自分でやりたがる。 靴を履くのも、スプーンを持つのも、私が手伝おうとすると首を振る。 もっとも、靴は左右逆になるし、スプーンで食べるより手で食べた方が早い。 それでも、できることが少しずつ増えていく姿を見るのは楽しかった。 「紗奈、湊の靴ならソファの下にあったわよ」 母がもう片方の靴を持ってきてくれた。 「ありがとう、お母さん」 「はい、湊くん。これでお出かけできるわね」 「ばあば!」 湊は母から靴を受け取ると、私の膝にちょこんと座った。 「ふふ。自分で履くんじゃなかったの?」 「まま」 「はいはい。お手伝いします」 小さな足に靴を履かせる。 ほんの少し前まで、抱っこしていなければどこにも行けなかったのに。 今では自分の足で玄関まで歩いていく。 子どもの成長は、本当に早い。 *** 今日は湊と二人で、商店街まで買い物に行く予定だった。 ベビーカーに乗せようとすると、湊は嫌がって両手を伸ばしてきた。 「歩きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、少しだけね」 手をつないで歩き始めると、湊は一歩ごとに足元を確かめるように進んだ。 道端の花。 電柱の影。 風に揺れる木の葉。 大人なら気にも留めないものが、湊にはどれも新鮮らしい。 「まま、あ!」 湊が指さした先には、小さな犬がいた。 「わんわんだね」 「わんわ!」 「そうそう、わんわん」 飼い主の女性が微笑み、犬も尻尾を振った。 湊は嬉しそうに笑ったけれど、犬が近づいてくると、慌てて私の足にしがみついた。 「怖かった?」 「……わん」 「大丈夫だよ」 しゃがんで抱き上げると、湊は私の肩に頬を寄せた。 商店街に着く頃には、湊はすっかり疲れてベビーカーの中で眠っていた。 「お疲れさま」 小さな寝顔
「紗奈、そろそろ携帯を買い替えたらどうだ?」休日の朝、父が新聞を読みながら言った。「え、どうして?」「昨日も充電が切れたって言ってただろう。もう何年使ってるんだ」「四年くらいかな。最近、急に電源が落ちることがあって」「それなら買い替えた方がいい。湊を連れて出かけたときに使えなくなったら困るだろう」確かに、その通りだった。先日もスーパーで買い物をしている最中に電源が落ち、母からの電話に気づかなかったことがある。「そうだね。今日、見に行ってこようかな」「湊は私たちが見てるから、ゆっくり行ってきなさい」母が台所から顔を出した。「え、いいの?」「もちろん。たまには一人で出かけてきたら?」紗奈は少し迷ったものの、ありがたく甘えることにした。湊が生まれてから、一人で外出する機会はほとんどなかった。久しぶりに身軽な格好で家を出ると、秋の風が頬を撫でた。もう夏も終わりに近づいている。***携帯ショップは、休日ということもあって混雑していた。受付を済ませてから三十分ほど待ち、ようやく名前を呼ばれる。「本日は機種変更ですね」「はい。最近、電池の持ちが悪くて」「かしこまりました。ちなみに、電話番号はそのままお使いになりますか?」店員の何気ない質問に、紗奈は顔を上げた。「……番号って、変えられるんですか?」「はい。新しい番号でご契約いただくこともできますよ。ただし、その場合はご家族やご友人に新しい番号をお知らせいただく必要があります」「そうなんですね」紗奈は膝の上に置いたバッグに目を落とした。電話番号を変える。今まで、そんなことは考えてもいなかった。けれど、その言葉を聞いた瞬間、ある人の顔が浮かんだ。東條怜司。昨夜も、彼からメッセージが届いていた。『白石。来月、少し時間を作れないか。君に会って話したいことがある』その文章を、何度読み返しただろう。会いたいとしっかり言葉にされたのは初めてだった。私にだって伝えたいことはたくさんある。それでも、一度返事をしてしまえば、きっと彼は会いに来る。仕事でも、一度決めたことは必ず実行する。曖昧な態度で引き下がるような人ではない。「お客様?」店員に声をかけられ、紗奈は我に返った。「あ、すみません」「いえ。お電話番号はいかがなさいますか?」紗奈は少し考えてから、口を開いた。
時が流れるのは早い。育児に奮闘しながら必死に過ごしているうちに、湊はあっという間に一歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、まだ腕の中で眠ることしかできなかった小さな命が、今では家具につかまって立ち、得意そうに笑っている。「湊、お誕生日おめでとう!」母が拍手をすると、湊も真似をして小さな手をぱちぱちと叩いた。「まあ、上手!もう一回やってみて」「ばば、ばあば!」「はいはい、ばあばですよ」嬉しそうに孫を抱き上げる母を見て、私は思わず笑顔になった。リビングには色とりどりの風船が飾られ、テーブルには母が作った料理が並んでいた。私が朝から格闘して作った小さな誕生日ケーキも、冷蔵庫で出番を待っている。「お父さん、写真撮ってくれる?」「ああ。湊、こっち向いてみろ」父がスマートフォンを構えると、湊はなぜか反対方向を向いた。「おいおい、じいじはこっちだぞ」「湊、こっち!」私が呼ぶと、今度は満面の笑みで振り返った。「よし、撮れた!」父が得意げに画面を見せてくる。そこには、湊ではなく、必死に息子の気を引こうとしている父の顔が大きく写っていた。「お父さん、これインカメになってる。お父さんしか写ってないよ」「おかしいな」「貸して。私が撮るから」「いや、今度こそ撮れる」そんなやり取りを繰り返していると、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」母が出迎えに行くと、聞き慣れた声がした。「こんにちは。これ、湊に」「まあ、悠真くん!ありがとう。上がっていって」高瀬悠真だった。「お邪魔します」悠真は小さな紙袋を手に、リビングに顔を出した。「湊、誕生日おめでとう」「ゆー!」湊は悠真を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばした。「お、覚えててくれたか」悠真がしゃがむと、湊は迷わずその腕に飛び込んだ。「ちょっと湊、悠真が来るといつも大喜びなんだから」「俺のこと好きなんだよな?」「きゃっ!」湊が笑い声を上げると、悠真も楽しそうに笑った。悠真は仕事の合間や休日に、ときどき顔を出してくれるようになっていた。買い物を手伝ってくれたり、湊の遊び相手になってくれたり。気がつけば、湊にとってもすっかり馴染みのある存在になっていた。「これ、プレゼント。よかったら使って」紙袋から出てきたのは、木製の積み木だった。「わあ、可愛い!ありがとう」「角が丸く
庭の木々が色づき、やがて葉を落とす頃には、湊もずいぶん表情が豊かになっていた。成長とともにわがままも増え、日中は一緒に過ごすだけでへとへとだ。ようやく湊が眠った夜、紗奈のスマートフォンが震えた。画面には、懐かしい名前が表示されていた。『藤崎美咲』東條グループで働いていた頃の、仲が良かった同期だ。入社当時は同じ部署に配属され、昼休みにはいつも一緒に食事をしていた。お互い部署の異動があってからは、なかなか顔を合わせる機会もなくなっていた。最後に会ったのは、いつだっただろう。育児ばかりの毎日で少し疲れていた紗奈は、久しぶりに明るい彼女の声を聞きたくなり、電話を取った。「もしもし、美咲?電話ありがとう、久しぶり〜」『紗奈!よかった、元気?ちょっとあんた、どうしたの?仕事辞めたこともつい最近知ったのよ!全然連絡くれないんだから』「ごめんごめん。ちょっと色々大変で、毎日ばたばたしてて」『……そっか、お疲れ様。まあ、元気ならいいんだけどね』相手の態度から瞬時に事情を察し、深く追及してこないところも美咲の素敵なところだ。「久しぶりに美咲の声聞けて嬉しい〜」『なによ〜、退職の連絡もくれなかったくせに!』「本当にごめんってば。美咲はどう?仕事忙しい?」『忙しいわよ。先月なんて残業続きで、せっかく予約した美容院もキャンセルしたんだから』「あはは、美咲が美容院を諦めるなんて相当だね」『そうなのよ!でもね、最近ちょっと面白いことがあって』「えっ、なになに?彼氏できた?」『残念、そっちは相変わらず。でも、すごいんだから、聞いてよ』弾んだ声の美咲から出るのは、大抵社内の恋愛か不倫の話題だった。以前も、営業部の課長と経理部の女性社員が付き合っているという噂を聞きつけ、昼休みいっぱいを使って紗奈に報告してきたことがある。今回もその類いだろうと思っていた。『今日ね、なんと社長に呼び止められたの』「……社長に?」思いがけない名前に、紗奈は姿勢を正した。『そう。廊下でばったり会ったら、白石とは最近連絡を取っているかって』「それで、何て答えたの?」『最近は連絡してないって言ったら、そうか、って。それで終わりかと思ったんだけど』美咲は楽しそうに笑った。『そのあと、白石は元気にしていると思うか、って聞かれたのよ』「……そんなことを?」『びっくり
春の終わりを見送った覚えもないのに、いつしか夏が来ていた。窓の外では、蝉が短い命を惜しむように鳴いている。七月の強い陽射しがカーテン越しに差し込み、私は大きくなったお腹をそっと撫でた。出産予定日が近づくにつれ、お腹はますます重くなっていった。寝返りを打つにも時間がかかり、少し歩くだけで息が上がる。母は家事を引き受け、父も休日には買い物や重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。「必要なものは揃っているか?」父がベビーベッドの横で尋ねた。「うん。あとは赤ちゃんが生まれてくるのを待つだけだよ」「そうか。何か足りなかったら言いなさい」父はベビーベッドの柵を確かめると、満足そうにうなずいた。母と一緒に選んだ小さな肌着も、きれいに畳んである。もうすぐこの服を着た赤ちゃんを抱けるのだと思うと、不安の中でも自然と顔がほころんだ。「もうすぐ会えるね」私はお腹を撫でながら話しかけた。そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、指が止まる。東條怜司。『無理に返事をしなくていい。ただ、元気でいてくれたらそれでいい』ずいぶん前に届いたメッセージが、画面に残っている。何度も読み返した言葉だった。返事をしなくてもいいと言ってくれた、その優しさに甘えたまま、私は結局一度も返信できずにいた。その下には、半年以上ぶりに新しいメッセージがあった。『返事はいらないと言ったのは俺だったな。前言撤回させてくれ。元気か?』彼らしい文章に、思わず口角が上がる。責める言葉は、どこにもなかった。それがかえって、胸に痛かった。怜司さんは、まだ私を心配してくれている。何も知らないまま。今、私のお腹の中にいる小さな命が、あなたの子供だということも。既読がついたのに気づいたのだろうか。画面を見つめていると、さらにメッセージが届いた。『今度こそ、ちゃんと時間を取ろう。食事でもどうだ』まるで、私が断ることをわかっていて、それでも誘ってくれているようだった。あの人は、こんなふうに何度も連絡をくれる人だっただろうか。お腹の子が、小さく動いた気がした。スマートフォンを伏せる。「……もうすぐ会えるね」今は、この子を迎えることに集中しよう。***陣痛が始まったのは、夜明け前だった。最初は下腹部に鈍い痛みを感じる程度だったが、次第に間隔が短くなり、痛みも
実家に戻ってから二週間ほどが過ぎた。その日は朝から母の体調が優れず、代わりに商店街へ買い物に出かけていた。買い物を終え、スーパーの袋を提げて商店街を歩いていると、背後から声をかけられる。「……紗奈?」聞き覚えのある低く清涼な声だった。振り返ると、少し離れたところに背の高い男性が立っていた。白い厚手のコートの袖を肘までまくり、片手に紙袋を持っている。一瞬、誰だか分からなかった。けれど、その人が目を細めて笑った瞬間、記憶がつながった。「……悠真?」「やっぱり紗奈だ」高瀬悠真。小学校から高校まで一緒だった、幼なじみだ。「えっ、久しぶり!」「久しぶりって……何年ぶりだよ」「五年くらい?」「六年。成人式以来だろ」「そんなに経つ?」「経つよ。相変わらずだな」悠真は呆れたように笑った。昔より背が伸びた気がする。もう少し細身だったのに、今は肩幅も広くなっていた。けれど、笑うと少し目尻が下がるところは昔のままだ。「悠真、こっちに住んでるの?」「ずっといるよ。大学出てから戻ってきて、就職先もこっち」「そうなんだ。全然知らなかった」「お前、東京行ってからほとんど帰ってこなかったもんな」「仕事が忙しくて」「知ってる。おばさんから聞いてた。東京の大きな会社で社長秘書やってるって」「……もう辞めちゃったけどね」私がそう言うと、悠真は少し驚いた顔をした。「辞めたの?」「うん。最近」「そっか」何か尋ねられるかと思ったけれど、悠真はそれ以上聞かなかった。代わりに、私の持っている買い物袋に視線を落とした。「それ、重くない?」「大丈夫だよ。そんなに買ってないし」「貸して」「えっ、いいよ」「いいから」そう言って、悠真は私の返事を待たずに袋を受け取った。「ちょっと、昔からそういうところ変わらないね」「何が?」「人の話を聞かないところ」「お前が遠慮しすぎなんだよ」当たり前のように言い返され、思わず笑ってしまう。高校生の頃も、悠真はこうだった。私が文化祭の準備で大量の荷物を運んでいると、何も言わずに半分持っていってしまう。テスト前に参考書を抱えて帰っていると、「重そう」と言いながら勝手に鞄を持つ。そのたびに私は「自分で持てるのに」と文句を言っていた。懐かしい。「そういえば悠真、今は何の仕事してるの?」「駅の