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第2話 懐妊

last update publish date: 2026-10-11 17:29:52

あの雨の夜から、三週間が過ぎた。

東條怜司は、何事もなかったかのように仕事をしていた。

朝は誰よりも早く出社し、会議では一切の妥協を許さず、必要な指示だけを簡潔に出す。

私に対しても、それは変わらない。

「白石、午後の会議資料は」

「はい。先ほどデスクに置いておきました。変更箇所には付箋をつけています」

「分かった。ありがとう」

それだけ聞けば、以前と何も変わらない。

けれど、あの夜以来、怜司さんは何度か私を食事に誘ってくれていた。

「白石、今夜は予定があるか」

「……申し訳ありません。今日は少し予定がありまして」

「そうか。残念だな」

怜司さんは手元の書類を閉じ、少し考えるような視線をこちらに向けた。

「では、明日は?」

「明日も……すみません」

「なるほど。最近の君は、俺よりよほど忙しいらしい」

冗談めかした口調に、思わず顔を上げる。

「そんなことは……」

「いや、いいんだ。優秀な秘書を独占しすぎるのも考えものだからな」

そう言って笑う彼に、胸が痛む。

本当は、何の予定もなかった。

ただ、曖昧な関係の中二人きりになってしまうのが怖かった。

「……では、失礼いたします」

書類を抱え直し、社長室を出ようとする。

「紗奈」

不意に名前を呼ばれ、足が止まった。

「……はい」

「ひとつだけ聞いてもいいか」

怜司さんはいつもの穏やかな表情を浮かべていた。

「最近、俺の誘い方が下手になった気がするんだが」

「……え?」

「以前はもう少し、君を食事に誘うのが上手かったはずなんだ」

思わず笑ってしまった。

「……社長でも、誘い方に悩まれることがあるんですね」

「そうだな。好きな相手には、どうも格好がつかない」

さらりと言われ、頬が熱くなる。

怜司さんはそんな私を見て、わずかに目を細めた。

「……それでも、難しいかな」

先ほどまでの軽い調子とは違う、静かな声だった。

私は書類を抱える手に力を込めた。

「……申し訳ありません。今は、少し忙しくて」

「そうか」

彼は小さくうなずいた。

「なら、落ち着いたら教えてくれ。店選びだけは得意なんだ」

「……はい」

「そう言っておいて君の好みを外したら、社長としての評価まで下がりそうだが」

「そんなことで評価は下げません」

「それを聞いて安心した」

彼が笑うので、私もつられて笑った。

社長室を出る直前、もう一度だけ振り返ると、怜司さんはまだこちらを見ていた。

私は何も言えず、静かに扉を閉めた。

仕事の話をして、必要な資料を整え、彼の予定を管理する。

***

「白石?」

名前を呼ばれ、私ははっと顔を上げた。

「はい。申し訳ありません」

「いや、何か考え事か」

「いえ、大丈夫です」

怜司さんは私を見つめた。

「顔色がよくないな。体調でも悪いのか」

「少し寝不足なだけです。ご心配をおかけして申し訳ありません」

「謝ることじゃない。無理はするなよ」

「ありがとうございます」

短いやり取りだった。

それなのに、胸が苦しくなった。

彼は優しい。

あの夜だけではなく、今だってこうして私を気遣ってくれる。

だからこそ、期待してしまう自分がいた。

もしかしたら、彼も私のことを特別に思ってくれているのではないか。

そんなことを考えては、すぐに打ち消した。

彼にとって私は、結婚相手の候補にすら挙がらないだろう。

それに、ここ数日、もうひとつ気がかりなことがあった。

予定していた月経が、まだ来ていない。

最初は、仕事の疲れやストレスのせいだと思っていた。

けれど、朝から胃のあたりがむかつくことが増え、食事の途中で箸が止まることもあった。

まさか。

そんな考えが浮かぶたび、私はすぐに打ち消していた。

あの夜のことを思い出すと、未だに胸が高鳴る。同時に、どうしようもない不安が込み上げてきた。

もし、本当にそうだったら。

私は、どうすればいいのだろう。

***

その日の帰り、私は駅前のドラッグストアに立ち寄った。

妊娠検査薬の棚の前で、立ち止まる。

誰かに見られているわけでもないのに、ひどく落ち着かなかった。

急いでひとつだけ購入した後、足早に店を出る。

家に帰っても、すぐには使えなかった。

鞄を置き、着替えを済ませても、検査薬を取り出すことができない。

もし、違っていたら。

きっと、ほっとするだろう。

今までどおり仕事を続けられる。怜司さんのそばにいられる。

あの夜のことも、胸の奥にしまっておけばいい。

けれど、もし違っていなかったら。

私は小さく息を吸い、説明書を開いた。

書かれている手順を何度も確認しながら、検査を済ませる。

結果が出るまでの時間が、ひどく長く感じられた。

時計の針が進む。

私は洗面台の前で、両手を握りしめていた。

お願い。どうか、違っていて。

そう願いながら結果を確認した瞬間、息が止まった。

陽性。

妊娠している可能性が高い。

「……うそ」

かすれた声が、静かな部屋に落ちた。

何度見直しても、結果は変わらなかった。

精度が高いと謳うパッケージが、いたずらに思考力を奪っていく。

私はその場にしゃがみ込んだ。

何も考えられない。

やがて、恐る恐るお腹に手を当てた。

まだ何も変わっていない。

痛みもなければ、これまでと違う感覚があるわけでもない。

それなのに。

ここに、小さな命がいるかもしれない。

怜司さんの子どもが。

そう思った途端、涙があふれた。

嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。

ただ、頭に浮かぶのは、あの雨の夜のことばかりだった。

優しく名前を呼んでくれた声。

抱きしめてくれた腕の温もり。

そして、翌朝に聞こえた電話の言葉。

――会社のために必要なら、いずれは考えるさ。

見合い。結婚。

東條グループを背負う人。

彼には、私の知らない世界がある。

「……どうしたらいいの」

誰にも聞こえない声で、私はつぶやいた。

***

翌日、私は産婦人科を受診した。

診察を終え、医師から妊娠していると告げられる。

これから定期的に診察を受けること。

体調に気を配り、無理をしないこと。

説明を聞きながら、私は何度もうなずいた。それしかできなかった。

病院を出ると、街はいつもどおりだった。

行き交う人々も、走る車も、店先に並ぶ商品も。

何も変わっていない。

変わってしまったのは、私だけだった。

お腹に手を添えながら、ゆっくり歩く。

ここに命がある。私が守らなければならない命が。

途方に暮れながら帰宅していると、街路樹が少しずつ色づき始めているのに気づく。ついこの間まで暑さが残っていたのに、朝晩はすっかり肌寒い。

季節だけが、何事もなかったかのように進んでいく。

***

その夜、私は自宅でスマートフォンを握りしめていた。

怜司さんの連絡先を開く。

仕事の連絡なら、何のためらいもなく送れる。

明日の予定変更。会議資料の確認。取引先からの連絡。

どんな用件でも、必要なことを簡潔にまとめて送信できる。

けれど、今は全く手が進まない。

『お話ししたいことがあります』

そこまで入力して、手が止まった。

これでは、あまりにも曖昧だ。

『実は、妊娠しました』

そう打ち直す。

たった一文なのに、送信ボタンを押せなかった。

このメッセージを送れば、すべてが変わる。

彼はきっと責任を取ろうとする。そういう人だ。自分が引き受けるべきことから逃げない。

だからこそ、怖かった。

彼の誠実さに甘えて、人生を縛りたくなかった。

彼が本当に私を選んでくれたのか。それとも、責任を果たそうとしているだけなのか。

そんなことを疑いながら夫婦になるなんて、きっと耐えられない。

私は入力した文章を、ひと文字ずつ消していった。

「……ごめんなさい」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

最近は、謝ってばかりだ。

***

翌朝、出社すると、怜司さんはすでに社長室にいた。

「おはようございます、社長」

「ああ、おはよう」

いつもどおりの挨拶。

いつもどおりの光景。

それだけなのに、私は彼の顔をまともに見られなかった。

「白石」

「はい」

「本当に体調は大丈夫か?」

思いがけず尋ねられ、私は慌てて顔を上げた。

「はい。もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「ならいいが。具合が悪いなら、遠慮せずに言ってくれ」

「はい。ありがとうございます」

その優しさに、胸が痛くなった。

今妊娠していると伝えれば、彼はきっとさらに心配してくれるだろう。

病院にも付き添ってくれるかもしれない。

なんなら私の体調を気遣い、仕事の負担を減らそうとまで言い出すかも。

「白石」

「……はい」

「少し、時間をもらえないか」

私は顔を上げた。

彼は書類を閉じ、こちらを見ていた。

「仕事のことでしょうか」

「いや。個人的な話だ」

心臓が嫌な音を立てた。

「あの夜のことも含めて、君と一度きちんと話がしたい」

思わず視線を落とす。

あの夜。彼はこんなにも簡単に口にする。

「……申し訳ありません。今は、少し」

「今すぐじゃなくていい。君の都合のいいときで構わない」

「……ありがとうございます」

「紗奈」

その呼び方に、思わず顔を上げさせられる。

「俺は、君に無理をさせたいわけじゃない」

怜司さんは少しだけ眉を寄せた。

「ただ、あの夜のことを、なかったことにはしたくないんだ」

息が止まりそうになった。

なかったことにはしたくない。その言葉が、どれほど嬉しいか。

けれど、今の私には、その先を聞く勇気がなかった。

妊娠していると伝えれば、きっと彼は責任を取ろうとする。

今こうして話そうとしてくれているのも、彼の誠実さゆえなのかもしれない。

「……すみません。今は、仕事に集中したいんです」

怜司さんの表情が、わずかに曇った。

「……そうか」

それ以上、彼は何も言わなかった。

私の気持ちを尊重してくれたのだと分かっていた。

それでも、彼が静かに書類へ視線を戻したとき、ひどく寂しくなった。

自分から拒んだくせに。

私は本当に、勝手な女だと思った。

***

帰宅した私は、もう一度スマートフォンを手に取った。

今度こそ、伝えよう。何も言わずに誘いだけ断り続けるのは間違っている。

そう思い、怜司さんの連絡先を開いた。

けれど、ふと、その先にまで考えが巡った。もし、この子が生まれたら。

怜司さんは父親として、この子を迎えようとするだろう。

東條家の跡取りとして育てるべきだと周囲が考えるかもしれない。

どこで育てるのか。

誰が育てるのか。

そして将来、何を期待されるのか。

まだ生まれてもいないこの子の人生が、私の知らないところで決められてしまうかもしれない。

東條怜司と表示されたメッセージ画面を閉じる。そしてゆっくりとお腹に手を当てる。

「ごめんね……」

わけもわからず涙が頬を伝った。この子には、無駄に苦労をかけてしまうかもしれない。

「あなたのことは、私が守るから」

怜司さんを好きな気持ちは、今も変わらない。それでもこの子だけは、誰かの都合に振り回されずに生きてほしい。

私は涙を拭い、顔を上げた。

不安はある。怖さもある。

それでも、この子を産みたい。

私のもとに来てくれた命を、守りたい。

「一緒に頑張ろうね」

小さなお腹に向かって私はそっと語りかけた。

返事はない。

それでも、もうひとりではないのだと思った。

***

翌朝、私はいつもどおり出社した。

社長室のドアをノックし、いつもの声で挨拶をする。

「おはようございます、社長」

「ああ、おはよう」

怜司さんは書類から顔を上げ、私を見た。

「顔色がすぐれないな。変わりないか」

「はい。大丈夫です」

彼は何か言いたげだったが、結局それ以上は尋ねなかった。

私はいつものように一日の予定を読み上げる。

会議の開始時刻、来客の予定、午後の打ち合わせ。

ひとつずつ確認している間だけは、普段の自分でいられた。

「……白石」

「はい」

「本当に、無理だけはするなよ」

「ありがとうございます」

私は頭を下げた。

その言葉に、どれほど救われているか。

そして、どれほど苦しめられているか。

きっと彼は知らない。

隠し通さなければならないのに、彼の優しさに触れるたび、決意が揺らいでしまう。

私はこの日から、大きな秘密を抱えて生きていくことになったのだった。

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